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2日目(4月25日)
 ホテルを出発し石巻赤十字病院へ。本部にてメンバー登録し説明をうけました。石巻万石浦中学校へ到着。診察室(保健室)へ入りました。本当は、診察室の中を把握し業務に入りたいところだったのですが、当日石巻日赤に到着した時に、避難所の一つであるアイワグループホームより班長にコールが入っていたのです。「咳嗽・喀痰・頻脈の方がいるのですが・・・どうすれば」とそのため私は、班長の指示で医師とPTと共に事務さんの運転のもとで病院より持参の往診バッグ(点滴・処置・投薬・吸入のできる物品を揃えていました)を持ち、右も左もわからないままアイワグループホームへむかいました。到着した時も、どこから入ればいいのかわからない状態でしたが、どうにか入り口を見つけ、その方のところへたどりつきました。そこでバイタル測定を行い、医師の指示のもと、吸入・点滴・採血を行いました。少し状態が落ち着いてきたところで、他の方の回診を行い、前班から申し送られていた方の褥瘡処置、四肢冷感のある方には足浴、創傷処置、バイタル測定を行いました。万中の診察室へ帰ってきたのは、16時前でした。診療所での診察介助を手伝い、片付け1日のグループの業務内容を記入する救護日誌を作成しリーダーに提出しました(救護日誌は、毎日作成し診療所終了とともに記入し提出していました)。

松永 写真3
牡鹿郡女川町立病院から臨む

3日目(4月26日)
 万石浦中学校診察室での診察介助を行いました。受付・予診・吸入・点滴・プンク関注介助・縫合介助・処置介助等行いました。

4日目(4月27日)
 万石浦中学校診察室での診察介助を行いながら前班からも申し送られていた(ずっと申し送られていたと思われる)。物品の整理と診察室の模様替え・整理をしました。使いやすくなったと思われます。午後より万中の体育館(避難所)へ巡視にいきました。バイタルを測定したり、お話を聞いたりしました。自分たちの大変さや、現状を色々話してくださる方もいましたが、口を閉ざして大丈夫だからと手を横に振る方もいました。温かいものが食べたい、おにぎり・パン以外のものが食べたい、子供達に食べさせてやりたいと話される方もおられました。まだまだ、ここでは炊き出しは少ないですとも言っていました。夜20時30分より宮城県庁での次班への引継ぎに参加しました。看護師間での申し送りでは、継続看護、処置(足浴・褥瘡)が必要な方注意して観察してもらいたい方等 物品・診療所について、今回行った事柄について書面と口頭で申し送りました。

5日目(4月28日)
 ホテルを出発、バス・空路・バスを乗り継いで徳島県庁へ到着。職員の方に出迎えられました。そこで解散し5日間過ごした救護班メンバーともあいさつし、帰りました。

 今回医療救護班に参加させていただき、本当にいい経験ができたと思いました。全く知らないところで、知らない人と協力し合い、知らない人に何かを行う。充分な物資・場所のない中での診察、処置等経験することができました。出発前までは、何ができるだろうと不安の中でできる事を考えながら参加しました。実際に現場へ行くと、自分の中で状況がのみ込めないまま、治療・ケアが始まっていました。1日がとても早く感じ「時間が足りな~い」と大声で叫びたくなりました。最終日にようやく少し理解できてきたという感じで、もっと何かしてあげたい。もっと違うことができるのでは、もっと期間があったらという気持ちで帰ってきました。

 避難所の方のお話で印象に残っていることを紹介します。支援に来てくれているのは、日本人だけではないのです。米軍の方も来られて物資(靴下・学用品・衣類)を配給してくれるのですが、その中には必ず手書きの手紙が一緒に入ってくるのです、と何枚も重ねて袋に入れてあるのを見せていただきました。その内容は、応援メッセージや詩など英文と日本語訳で書かれていました。この気持ちがうれしいのよ、これを読むと元気になるのよと言いながら大切にしまっていました。国はちがっても気持ちはひとつと感動しました。

 最後に、この度5日間行かせていただきありがとうございました。今回行くにあたり、がんばってきますと言う反面、不安がどこかにある私達に残った病院スタッフたちから、必ず無事で帰ってきて、と言うやさしい言葉やあたたかいメッセージ、心遣いをたくさんいただきました。帰ってきてからも病院も大変だったと思いますが、そんな事は一言も口にせずお帰りなさい、お疲れ様でしたと顔を合わせたスタッフ一人ひとりが笑顔で声をかけてくれました。すばらしいスタッフに恵まれたことをうれしく誇りに思います。

 今回参加できたのも後方支援のスタッフがいたからだと感謝します。

(看護師長 中野美智子)


6.復命書 チームとしての継続看護・継続処置
 看護職として、生まれて初めて東北太平洋沖地震のような未曾有な災害を目の当たりにし、縁あって徳島医療救護班の一員として現地での活動に参加できたことは、私の看護観を一新させるよい機会となった。

 余震が続く現地での活動に不安がなかったといったら嘘になるが、徳島県庁で壮行式を終えた時点からは被災地の方々の役に立ちたい・少しでも何かしたい・何か残して帰りたいと思う気持ち正義感いっぱいで徳島の地を飛び立ったはずだったが・・・活動場所となる万石浦が近づくにつれ、冠水・倒壊した建物・山積みになった瓦礫・川に浮かぶ車・亀裂が入り段差の出来た道路・ヘドロと粉塵・・・被災地の現状を目にした私は一瞬言葉をなくした。

 活動初日、ミーティングの為、石巻日赤に到着した時点で活動エリア内のグループホームから入所者さん急変(頻脈・酸素飽和度低下)診察希望のオンコールが鳴った。チームリーダーの医師がホームの職員に指示を伝え、ミーティングを終え万石浦中学校に到着したのが10時35分(ホテル出発から3時間35分)教員室で鍵を受け取り診療所となる保健室に向かうと、廊下の椅子にはすでに四名の患者さんが待たれていた。

 松永病院からの参加は私も含め4名であったが、私を除いた3名(医師・看護師・PT)はすぐさまオンコールのあったアイワグループホームへ出動し・・・診療所には医師2名・看護師2名・薬剤師2名が残った。

 コミュニケーションのとれていない中での活動に少し不安も感じたが、日の当たらぬ寒い廊下で待たれている患者さんのことを思うとゆっくりもしておれず、徳大看護師とともにカルテと受付記入用紙・バイタル測定に必要な物品の確認のみを行い、すぐさま患者さんを呼び入れ診察を開始した。

 初め感じていた不安は診察開始と同時に消え去り、さすがプロの集団!!診察の流れはみごとなほどスムーズだった。内科疾患の患者さんが多く、咽頭炎・扁桃炎・気管支炎がおもで3月11日の震災直後に発症し診療所を受診、治療後軽快傾向にあったにも長引く避難所生活で疲労がたまり、症状再燃した同症状の患者さんが多かった。

 お国柄か高血圧の患者さんも多く、高齢者に関しては津波で服用していた薬が流された・通っていた病院も流された為処方希望の受診。若い方でも頭痛・頭重感気分不良を感じていたものの、疲れてるからだろうとそのまま放置症状ひどくなり受診された時の血圧が、上が180~190台、下が100台とすぐさま降圧剤の処方がなされた。少ないとは聞いていたが糖尿病の患者さんも数名おいでた。インシュリンを持参し来られた初診45歳女性は、「インシュリンの自己注射を朝夕にしているのですが、なくなったらインシュリンはこちらで頂けるのでしょうか?」との問い合わせ。自己測定器の所有を訪ねると津波で流されたとのこと、当日朝食8時摂取(クロワッサン1個・リンゴ1/2個・砂糖ぬきミルクコーヒー1杯)受診が11時過ぎ血糖測定してみると339mg/dl自宅は半壊も住める状態ではなく、現在知人宅で生活されているとのこと。食事も毎食規則正しくは摂取困難で、血糖測定によるインシュリン単位変更は必須な状態。医師・薬剤師により数ヶ所の調剤薬局とメーカーに問い合わせ連絡を入れた結果、4月28日診療所にその女性の自己測定器が届くこととなった。

 高血圧・心疾患・糖尿病など持続服薬を必要とする患者さんが自己管理を忘れた時、諦めた時、せっかく震災で助かった命をも落としかねないと恐怖心を覚えると同時に、継続看護の必要性・受診されていない方への訪問等の必要性を改めて考えさせられた。

 活動2日目は、医師・看護師・PTの3人編成でアイワグループホームへ往診に出かけた。
前日訪問していた松永病院のメンバーから申し送りをもらい、松永病院特製の救急往診バックに必要物品を補充し現地で10名の診察治療にあたった。オンコールのあった入所者さんも、前日の点滴・吸入などの適切な処置により状態安定軽快に向かわれていた。高齢者が多く、じょくそう処置・運動不足より末梢循環障害をおこされている方も多く下腿冷感浮腫改善の為足浴・PTによるマッサージ等も行った。事前準備、申し送りのおかげでスムーズな診療となった。

 活動最終日は、診療補助の合間に診療所内の物品整理・環境整備をおこなった。震災当初1日に100~200名の診察を行っていた為、環境整備までは手がまわらなかった様子で使いづらい診察室だったが・・・メンバー全員で協力し診察にスムーズな動線を築くことができた。午後より、避難所である体育館を訪問した。当初1,000名もの人が居たそうだが、それぞれの生活に戻り4月27日の時点で171名。仕事・学校も始まり、訪問した14時には30名弱の方しか居ずガランとした体育館だった。避難している方にとっては体育館が生活の場所であって、その中にもうけられた、区切られた狭いスペースが家となっているわけで・・・部外者の侵入を快く思わない方もいて、声掛けしても「大丈夫です。」の一言で会話が途切れてしまいコミュニケーションの難しさを感じた。中には診療所を受診され、徳島県医療救護班の存在をご存じの方もいらして、快く自分の生活エリア内に上げてくれいろいろ話をお聞きする機会を得ることができた。

 78歳女性の方で、体育館では娘さんとお孫さんの3人で生活されていて、昼間はそれぞれ仕事・学校へと出かけられその方一人で過ごされているとのこと。良いコミュニケーションがとれ3月11日震災当日の話も聞くことができた。その方は行動派で当日も友人数名と踊りの会に出席帰宅直後地震に遭遇、防災無線の津波警報を聞き通帳と財布だけ持ち、家を出たところで通りかかった近所の方の車に乗せてもらうことができ、中学校まで避難できたとのこと。車に乗り振り返ると黒い波が見えたそうだ。「私も、あの車が来なかったら・・・3分遅かったらここにいなかった。私の友人も八人亡くなった。」と話し下さった。今、欲しい物・したいことも尋ねてみた。「欲しいものは家。したいことは仕事。」との返答だった。78歳の年齢ではあるが、貝を選別する工場で働かれていたとのこと、その工場も津波で流され・・・当初は散歩兼ね自宅の様子も見に外出されていたが、自宅をかたづけようにも何も残っておらず辛いだけなので自然と外出しなくなったとのこと「何もすることがないのが一番辛い。」と話されていた。被災地の方に対し「頑張って」の言葉は禁句と聞いていた為お別れの際に「お体気をつけて下さいね!お元気でいて下さいね!」としか言えなかった私の手を取りその方は「大丈夫、頑張るから!!あなたもお仕事大変でしょうが頑張ってくださいね。」と言って下さいました。自分の置かれた大変な状況がありながらも、相手のことを思いやり前向きに頑張って生活している方に接し、東北は必ず復興すると確信した場面でもありました。

 最後に、この活動で感じたことはとにかく「時間が足りない・時間が欲しい」ということ!避難所生活が長期化することにより慢性疾患の増悪・生活環境の悪さから上気道炎・胃腸炎などの発症が予測される中、任務を終了し帰らなければいけない状況となり、十分な活動はできたのだろうか?被災地の方々の役に立てたのだろうか?患者さんとも1回だけの接点しかもつことできず・・・「虚しさ・悔しさ」が残る中、今の私たちがしなければいけないことは「チームとしての継続看護・継続処置」が行えるよう、次の班に詳しい適切な申し送りをすることと思い、看護師メンバーと相談し、患者さん個別の詳しい申し送りを伝え帰路についた。  

(看護師 小津晴子)


7.復命書 ホリスティック理学療法士として
 東日本大震災に係る被災地支援の医療救護班(14班、4月24日~28日)として、宮城県の石巻市立万石浦中学校と周辺の巡回診療で避難住民の医療救護活動に当院の医師1名、看護師2名と同行した。医療救護班参加決定後様々な前情報を得ながらも準備段階から何を持っていくか、現地ではどういうニーズがありどんな活動が必要とされるのか、と問いかけ続ける必要があった。当院コマンダーより、私のミッションは専門領域にとらわれずチームの中でホリスティックな動きをとることが使命とされた。

4月24日:~徳島県庁壮行式、移動と宮城県庁での申し送り~
 救護班チームメンバーは医師3名、看護師3名、薬剤師2名、事務1名、理学療法士2名で編成されており壮行会に参加した。仙台市内へバスで移動中に総勢28名が、自己紹介と被災地支援活動に対する意気込みを話した。

 宮城県庁で13班からの申し送りで全体会と部門別があり、私はもう一人の理学療法士(徳島県理学療法士会からの派遣)と共にリハの申し送りを聞く事となった。内容は万石浦中学校と周辺避難所、遊楽館の業務内容と対象者情報が主であった。チームとして協力し合っていく事が話し合われた。

4月25日:~石巻赤十字病院~万石浦中学校~あいわグループホーム~
 石巻赤十字病院本部でのインフォメーションを受け、必要書類が陳列されていたのを収集し万石浦中学校へ移動。リーダーより役割分担がなされ私は当院医師と看護師と供に事前連絡のあったあいわグループホーム(介護予防認知症対応型)へ移動した。当院医師と看護師は事前連絡のあった患者対応に入り、診察をしながらカルテやホーム職員より情報収集しながら治療を展開していた。当院から大量の医療物資を持参していたので現地での対応が可能であった。その間私は他に調子の悪い方(エコノミークラス症候群、生活不活発病、廃用症候群等)、理学療法適応者掘り起こしに当たった。始めに、ホーム職員から情報収集していると震災で建物自体が傾いて建屋のあちこちが凸凹になっており、私が歩いても真っ直ぐに歩けない程であった。歩行可能であった利用者が車椅子生活を余儀なくされて、不安な日々を過ごしているという事実を知らされた。ホーム職員の腰痛の訴えがあり、症状から自己管理方法を伝達。大変喜んで頂き利用者様とのコミュニケーションのパイプ役をして下さった。腰痛治療や動作練習をしているうちに施設の昼食タイムとなった。医師の診療補助に戻り、万石浦中学救護室との血液検査のやり取り、医療器具の煮沸消毒(湯が出ないため鍋で沸かしてドライヤー乾燥)等を行った。医師、看護師と共に居室を全て回っていきながら下肢の浮腫対応として足浴しながらのマッサージ、運動指導、軟膏塗布、弾力包帯、ストッキング装着、褥瘡処置等の補助も行った。エアマットを必要としたがスムーズに手配出来ない事実があった。万石浦中学に戻りミーティング後終了。

松永 写真4
医療救護班巡回診療中

4月26日:~万石浦中学校救護所~
 1診は整形外科、2診は内科でスタート。整形外科受診者も多く、診察、処置後の理学療法を救護所内の点滴ベッドにて行うこととなった。避難所生活において既存していた両膝痛、腰痛等が悪化したものが多かった。日常行っている評価と治療と避難所で出来る難しくない自己管理方法の指導を展開して行った。救護所内は診察室、薬局、受付、待合、薬剤庫、処置ベッド等、仕切りはあるものの全てが一室内にあるので流れが速く非日常的な動きが要求された。他のスタッフも多忙を極めているので、ホリスティックミッションとして受付、カルテの作成や検索、問診、検温、血圧測定、看護師の補助、物資検索、処置後のゴミ分類等も行った。

4月27日:~万石浦中学校体育館~うしお荘~救護所~宮城県庁での引き継ぎ~
 当院医師とともに体育館へ巡回、体育館内はパテーションでの仕切りはなく荷物での仕切りがあるのみの状態である。昼間は自宅の片付け等で避難所にいる方は少ないが、毛布に包まって寝ている方、横になってテレビを見つめている方などが目立っていた。「困っていることはないですか?」とストレートに聞いても皆大丈夫だと答える。普段は肩やら腰やらが痛いと訴えている方も大丈夫と答えている様子である。

 短く自己紹介をして「血圧を測りましょうか」→「お膝が痛そうですね」「お薬は・・・」等と声のかけ方をかえると状況は一変します。「救護所で受診されませんか?」→「・・・」。動く気持ちにもなれずに横たわっている方や、老人で転倒することを考えて動かない方等が多い様子であった。巡回中にその場での医師の診察と処置。救護所への誘導。要介護者の相談の補助を行った。総合福祉会館うしお荘でも同様に巡回して、その場での医師の診察と処置。救護所への誘導を行った。うしお荘でも動く気持ちにもなれずに横たわっている方は目立っていた。

 ある避難者の方で「血圧を測りましょうか」から始まり、「膝が痛くて階段が降りられなくなって来たのよ。」「お薬は日赤まで取りに行かないといけないのよ。」「救護所まで行きます。」等の声を聞くまでは時間がかかります。

 この方、階段は手すりを持って斜に降りていらっしゃいましたが、医師の診察、処置、理学療法を実施後は正常な階段昇降が可能となり大変喜んでおられました。救護所では診療の合間に救護所内の整理整頓を行い後発救護班のために診察室改修、薬剤棚の改修、夜の引継ぎのための資料作りを行った。夜宮城県庁での引き継ぎ会議へ参加してミッションを終えた。

おわりに:~活動を通して感じたこと~
・スタッフ一人一人が非日常的な活動が要求され専門領域のみではなく総合力が必要。
・余震、交通事情、たくさんの社会的、精神的、身体的問題を抱えた要救護者ニーズ、限られた医療物資、医療連携、社会福祉等、現地では時々刻々と状況が変化しており、求められる事も定まったものではない。
・前情報は色々あっても、現場のニーズに見合ったものではないこともあり、ちゃんと見極めて即断即決即実行が必要。
・チームで行動することで報連相を徹底していないと情報が錯綜して混乱を招く危険がある。
・当院の場合、持ち込んだ訪問セットは大役を果した。
・11名のチームワークは素晴らしいものであった。

(理学療法士 藤本恭司)


8.おわりに
 東日本大震災にかかる徳島県医療救護班第14班に、当院より4名の医療職を派遣したので、派遣準備から派遣終了・復命までを報告した。医療職個人、また1病院の貴重な経験談で終わらせることなく、これからの災害対策の一資料になれば幸甚である。

謝辞
 このたびの派遣に際しご尽力いただいた徳島県、徳島大学、徳島県医師会のすべての方に感謝いたします。
© TOKUSHIMA MEDICAL ASSOCIATION.