森田敏文(徳島市民病院)
<はじめに>
平成23年、この「311」の出来事は戦後最悪の事態であり、日本だけでなく世界でも大きく捉えられ日本国民の心の大きな傷となった日です。この事態に対応するため石巻エリアの救護、医療支援をするのに編成されたのが徳島県医療救護班であり、その第24陣の一員として活動してきた事をご報告させていただきます。徳島県として、第1班が3月16日より派遣され、私が派遣された第24班は発災からすでに約2ヶ月が経過しておりました。そして、第24班は7名で編成され、ほぼ全員が徳島市民病院の職員であり、徳島市民病院としてもこのような事態に様々な職種が集結し、他県で医療を提供するという初めての試みでありました。
徳島県庁にて壮行式
<スケジュール>
5月24日(火)徳島空港→羽田空港→庄内空港→仙台市内
5月25日(水)~27日(金)仙台市→石巻市万石浦中学校10:00~16:00診療
5月28日(土)仙台市内→山形空港→羽田空港→徳島空港
<メンバー>
医師:2名(徳島市民病院)
薬剤師:1名(徳島市民病院)
看護師:2名(徳島市民病院)
理学療法士:1名(阿南共栄病院)
調整員:1名(徳島市民病院)
<被害状況>
約2ヶ月経過しておりますし、仙台市内は全く普通で高速を降り、石巻市内に入ってもTVで見るような状況ではありませんでした。しかし、万石浦に向かう為に旧北上川を越えトンネルを抜けると、そこは別世界でまるで戦後を髣髴させる有り様でした。辛うじて道路はあるものの、まだそこには崩壊した住居、壊滅した店舗、田畑の到る所にどこからか流されてきた自動車など、車内に居た第24班全員が言葉を失いました。診療後、廃院が決定されている石巻市立病院周辺や隣町(女川町)の女川町立病院へ視察に行きましたが、こんな惨いことがあっていいのか?という位、悲惨極まりない状況で、なんといっても濃い磯の臭いに何か腐敗した臭いが入り混じった、表現しづらい異臭が辺りを漂っていました。女川町はリアス式海岸なので約20mの波が押し寄せ、丘にある女川町立病院の一階までが浸水したようです。
女川町
<概要と診療内容>
万石浦中学校の体育館には、震災直後約1,000人の避難者が生活していましたが、私達第24班が訪問した時は約140人とかなり減少し、自宅や仮設住宅に移住していました。昼間には10人位しか避難者が存在せず、子供達は学校へ、大人は仕事へと復旧への兆しが窺えました。受診患者数はかなり少なく5月25日(水)20名、5月26日(木)13名、5月27日(金)15名と初期の医療救護班が診察にあたった1日約100人といったような人数ではありませんでした。疾患内容としては、救急医療が必要な患者さんというよりは、かかりつけ医療機関が被災或いは流されてしまい、薬が処方されず発災から継続的に仮設診療所で処方してもらう為の受診や、瓦礫等の粉塵被害による呼吸器疾患、小児の熱発、外科的には切創などでした。そして患者さんは被災者の方だけでなく、ボランティアの方や万石浦中学校の生徒、職員といったように様々な方々が受診されました。
万石浦中学校保健所(仮設診療所)
<石巻圏のこれからの医療方針>
平成18年に建設され、免震構造のため今回の地震では無傷であった石巻赤十字病院が石巻エリアの災害医療拠点となり、同院の外科部長:石井正先生が宮城県災害医療コーディネーターという立場で統括されていました。ここでは毎日朝夕に、全国からの医療チームが集まりミーティングが開かれて近況報告をし、問題解決に至るというものです。医療体制としては、発災からすでに約2ヶ月が経過し地元の医療機関も除々に復旧してきております。その為、今後は被災者の健康管理・急変対応といった救護から地元の医療にいかにつなげるか?そしていかに元の日常体制に戻していくか?に重心を移す時期に来ていました。この徳島県が担当する6B(渡波・万石浦)地区はもともと医療過疎地であり、この震災により仮設診療所が沢山設けられました。よって、救護班に依存させず自立を促し、災害前の医療レベル以上のことはせず、薬も仮設診療所ではできる限り処方せず、院外処方へという方針の下ソフトランディングしました。
石巻赤十字病院夕方のミーティング
<最後に>
この徳島という地域で違う職種が自ら志願し、一丸となって被災地で医療を提供するというなかなかできない貴重な体験をし、医療の事だけではなく、沢山の大切な事などを学ばせていただきました。
この度一緒に活動していただいた三宅先生、井野口先生、コメディカルの方々、後方支援していただいた露口先生、惣中先生、その他徳島県職員、徳島市病院局の方々に本当に心より感謝致します。