1.はじめに
5月22日夜、徳島空港へ帰ってきたとき、飛行機の窓から見えたきれいな工場の建物や整然と並んだ車列に違和感を感じました。わずか5日間でしたが、被災地の光景に慣れ始めていたのですね。我々7名(医師2、看護師2、薬剤師1、理学療法士1、事務1)は災害派遣ナース2名とともに、5月18日から22日まで宮城県石巻市万石浦中学校に徳島県医療救護班の第22班として派遣されました。地震発生から約2ヶ月経過した状況報告になります。
2.徳島から仙台へ
私は東北地方は初めてでしたので、場所がよくわかりませんでした。初日は、徳島から羽田、羽田から山形の庄内空港、そしてバスで陸路を宿舎のある仙台市へと向かいました。初期はバスで16時間かけて行ったそうですが、大変だっただろうと思います。今なら東京から新幹線で行くのが便利ですね。仙台は大きな都市でした。地震で破壊された建物もほとんど見当たらず、レストラン、デパート、街を歩く人々、普段と変わらない光景に見えましたが、4月初めごろまでは、電気水道も通ってなかったそうです。到着日、夜8時から宮城県庁で前の班から申し送りを受けました。宿舎はきれいなホテルで予想外でした。
3.仙台から万石浦中学校へ
翌朝7時、車で石巻へ、まず赤十字病院でオリエンテーションを受けたのですが、ツナギの制服を着たスタッフがひっきりなしに出入りし患者さんも多く混雑して、いよいよ被災地の近くに来たのだという緊張感に包まれました。被災地は各エリアに区切られ、エリア別に担当が決められていました。徳島は6-Bというエリアでした。任務は診療と避難所の生活や健康調査を行い、アセスメントシートに記入して毎日石巻赤十字病院の本部に報告することでした。そこからさらに車で40分ぐらい行ったところが万石浦中学校です。仙台から2時間半ぐらいかかりました。途中の高速道路は復旧のため、被災地へ向かう人や物資を乗せた車で朝夕は大渋滞となっていました。高速道路から下の道路へおりると、テレビの中の世界がひろがっていました。がれきの山、壊れた家の中に突っ込んだ車、広い田んぼの中に点々と散らばった車など、2ヶ月経った今も手つかずのところがたくさんみられました。主要道路はがれきが除かれて通行は出来ましたが、ところどころに地震のためか陥没や段差があり、補修されていました。
4.万石浦中学校にて(診療)
さて、万石浦中学校に着くと、保健室で診療を行いました。震災直後は、外来が100人以上という話も聞きましたが、私たちの場合は2ヶ月以上経ったためか、3日間で17人、19人、8人というぐあいでした。周囲の開業医さんも津波被害に遭い壊滅状態でした。もちろんレントゲンも使えず、薬やシップを処方するだけという診察でした。復旧作業のためか周囲には、粉塵が飛んでいるようで喉を痛めたり風邪をひいたりしている人もいました。その他、震災後のストレスによる不眠や高血圧の人が多かったように思います。診療は各自業務をしっかりこなし、スムーズに行ったと思います。しかし、点滴が必要な患者の治療方針やレントゲン検査の必要性などをはじめとして、震災の現場に合わせその場その場で考えて対応しなければならないことや、携帯にかかってくる緊急連絡などで緊張しっぱなしでした。携帯電話は石巻赤十字の本部と直接連絡が取れ、すぐに即断即決の返事がもらえて助かりました(縦の情報伝達)。緊急時には、情報伝達の早さと即断即決が非常に重要だと思いました。
石巻赤十字病院
石巻赤十字病院にて(事前説明)
5.避難所のようすと事情(生活調査)
中学校の体育館が避難所でした。当初は他に3ヶ所ぐらいあったそうですが、次第に減り、何かあれば対応するというぐあいになっていました。初めのころは、1,000人近くいた人が137人となっていました。電気や水道も復旧しており、近くのイオンスーパーも開店し少しずつ以前のくらしを取り戻してきているという感じでした。自宅の掃除などに帰るため、昼間は30数人しかいません。しかし、避難所には高齢の方も多く、家や車、財産も流されて行き場がない、どうしていいのかわからないといった人もいました。大塚医師、山口看護師による音楽療法やリハビリ体操も喜ばれました。そして、調査でわかったことですが、食事は2ヶ月経っても朝おにぎり1個、昼菓子パン1個、夕方はお弁当といった内容だったのでびっくりしました。県庁の方を通じて調べてもらったところ、どこの避難所もこれが基本ということでした。買い物に行ける人は行って補給するのですが、いけない人もいます。これは何とかしないといけないと思ったのですが、行政も人的物的に被害を受けており、これが精一杯ということでした。避難所によっては炊き出しや支援がたくさん来てくれるところもあり、それで栄養補給ができているところもあるようでした。万石浦は炊き出しがほとんどなかったので、NPO法人「つなプロ」に連絡を取ってもらい炊き出しの要請をしたところすぐ来てくれました。このように避難所間の支援体制には格差がありましたが、避難所で情報をまとめたり、発信する核となるところがはっきりしないため、行政が避難所間で連絡を取り合って(横の情報伝達)バランスを取るのは難しいようでした。避難所の生活は段ボールで区切られた中でしておりプライバシー保護には不十分でした。また、体育館の床の上に毛布を敷いて寝るといった状況がまだ続いていました。
石巻市内
安曇野ボランティアクラブ炊き出し
6.感想
感じたことをまとめますと、このたびの震災の現状を目の当たりにして、あまりの規模の大きさに、これは東北だけの問題ではなく日本が一丸となって乗り越えないといけない問題であると痛感しました。また、先に派遣された方々も書いていましたが、東北の人たちは非常に我慢強いと感じました。そして、緊急時には情報伝達のスピードと即断即決の大切さ、情報の縦と横のつながりの重要性などを学びました。最後になりましたが、ふつうに食べて、ふつうに寝て、ふつうに仕事ができるってことはとても幸せなことなのだなあとつくづく思いました。
7.謝辞
このたびの派遣に際しましてご尽力頂きました徳島県、徳島県医師会、木下病院の皆様方にお礼を申し上げます。また、大塚先生(県医師会副会長)、佐々木さん(県職員)、上地さん(鳴門山上病院)、松林さん(木下病院)、山口さん(木下病院)、里見さん(県医師会職員)ありがとうございました。大西さん(麻植協同病院)宇田さん(麻植協同病院)お疲れ様でした。とてもいいチームワークだったと思います。