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東日本大震災に関する情報
三村誠二(徳島県立中央病院)

 平成23年3月11日、東日本大震災が発災、それは日本人にとって忘れられない日になりました。アメリカの同時多発テロは9月11日で、奇しくも11日が共通。アメリカが「911」なら日本は「311」が国民の心に刻まれた数字となりました。アメリカでは危機管理が911を境に激変したと言われていますが、日本でもこれを契機に様々な危機管理の方法や概念が変わっていくと思います(ちなみに関東大震災は9月1日、阪神淡路大震災は1月17日で、11が重なったことは単なる偶然)。すでに徳島県からも様々な形で現地への支援がなされており、医療関係者も沢山の方々が支援に行かれました。また、直接入らなかったとしても、後方支援や援助物資、情報等、支援に携わった方は数多くいます。この誌上でも医療救護班の報告が何度かなされており、概要は皆様ご存知のことと思います。重複する点があるかもしれませんが、私なりの視点から思いつくまま書いてみました。


 3月11日午後、とある会議中に頻回な院内PHSのコール。少し苛立って出てみると、東北地方に大震災が発生しDMAT待機要請が来ている、と。これが「未曾有の大災害」の第一報でした。会議のことが全て真っ白になり、急いで病院長に連絡しDMATの準備にとりかかりました。しかし、徳島県にも「大津波警報」が出されていたため、県内のDMATは自施設で待機、第一波が甚大な被害をもたらすものでなかったことを確認したのち、県立中央病院から私を含むDMAT第1班が出動しました。発災日21時のことでした。物資を多く積載可能で、被災地での移動がしやすい車輌による移動か、あるいは参集拠点からの自衛隊機による移動か、どちらで現地にはいるか悩みましたが、最終的に伊丹空港から岩手県花巻空港に入りました。DMATは医療専門チームのため、機動力に欠けるという欠点がありますが、自衛隊と共同することでその機動力を借りることができます。

 翌朝、花巻空港に到着すると、空港内の消防関係施設でSCU(広域医療搬送拠点)の設営を行いました。これは被災地域から重症傷病者を自衛隊機で被災地外に搬送するためのシステムです。ただ実際には津波による死亡者(トリアージタッグ黒)か、津波被害をまぬがれた人(トリアージタッグ緑)のどちらかという状況であり、花巻空港は津波被害域に取り残された人々の救出後参集場所の様相を呈していました。しかし、機能のストップした石巻市立病院からの入院患者搬送、域外への搬出など、1日数名の傷病者を被災地外へ搬送しました。その他の傷病者は、花巻空港周辺の医療機関へ陸路で搬送しました。集まったDMATに比べて傷病者が少なく、SCUとしては空振りに終わったのではないか、との意見がありますが、現在は情報をまとめている段階であり、評価はもう少し先になりそうです。ただ、DMATも警察や消防、自衛隊のようなミッションをこなす部隊であるのなら、「有事にそなえ待機する」というのは必要なことで、「待機」時間が長くなることも仕方のないかもしれません。日常、救急外来や集中治療室、手術などで忙しくしている医師、看護師が中心の部隊ですから、現地で焦燥感にかられたのだと思います。その後2日間、花巻空港で任務にあたった後、徳島県DMAT5チームは徳島県に帰りました。しかし、翌日には次のフェイズである医療救護班の準備にとりかかりました。徳島県は関西広域連合により宮城県を支援することが決まったため、当院医療救護班第1班は私と看護師2名、薬剤師1名、事務調整員1名で宮城県石巻市に入りました。その他にも心のケアチーム等も同時に宮城県に入っています。ただDMATの時とは違い、空路がストップしているため陸路にて自力で宮城県を目指しました。冬のハザード、積雪をくぐり抜け、約2日がかりで仙台市に到着しています。仙台市に業務調整員として入っている県庁職員の方と合流し、次のミッションの計画を立てました。

三村 写真1
宮城県庁での申し送り

 石巻市は人口16万人ですが、最も津波被害が大きかった地域の一つです。徳島県医療救護班は、石巻市の東部、万石浦中学校という学校の保健室に、職員の皆さんに多大なご協力を得て救護所を設営しました。同学校には1,000人の被災者の方々が避難、電気も水もまだ回復しておらず、不自由な生活を強いられていました。もともと石巻市東部の旧北上川東岸地区は開業医の数も少なく、医療過疎地でした。救護所を受診される患者さんは1日100名近くにのぼり、上気道炎、急性胃腸炎、瓦礫撤去にともなう外傷などが主な傷病でした。地震前から飲んでいた内服薬を津波で失ったという人も多く、投薬過剰な日本医療の現状を微妙に恨めしく思いました。また、津波で肉親を失った方々が、不眠や不安など精神的な症状を訴えて受診されました。一歩のところで生死を分けた瞬間、大事な方々を亡くされた被災者の皆さんに、どのような言葉をかけてよいのか分かりません。ただ話を聞くのみです。このような方々は急性期のストレス障害の方が多く、個々の精神科的な診療よりは、心理教育などの方法が妥当と考えられました。

三村 写真2
救護所

 救護所となっている各小中学校の周囲の町並みには、テレビで報道されているような、瓦礫、道路に横たわる船、あちこちの転がる自動車、打ち上げられた汚泥が乾いた粉塵・・・実際に目の当たりにすると、逆にその現実感がない風景に、感覚が麻痺してしまいます。また、余震も多かったため、災害はいまだ進行中である、と実感しました。現在でもアウターライズ地震とよばれる、震度5クラスでも大津波をともなう地震が発生することが危惧されています。津波を遮るものがほとんど無い状態での第二波。被災地の中心部で診療にあたる医療班も、避難路を確実に知っておかなくてはなりません。いまだ過去の地震被災地の支援ではなく、進行中の災害の真っ直中であることを認識する必要があります。

 その後も足りなかった薬剤を追加し、血液検査機器なども導入し、小さなクリニックのような救護所となりました。もちろん現地のニーズも刻一刻と変わっており、現在では保健や福祉の内容も含めて、仮設診療所の建設、医療の集約化などの段階に入っています。

 今回の震災により、我々徳島県民も多くのものを学び、そしてこれからも学んでいくことになると思います。ご存知の通り「東南海・南海地震」では徳島県はさらに大きな被害を受けることが予想されます。県庁所在地の津波被害、災害拠点病院の機能停止、広域医療搬送拠点の使用不可、落橋や船舶による建築物の被害、孤立地域の発生、備蓄物資の津波被害、これらをどう乗り切っていくのか、医療従事者として何に取り組んでいくべきなのか。考えることは山積しています。アメリカでは911以降、心肺蘇生処置コースのように災害医療の基本を全医師対象にトレーニングコースをすすめています。また、医療従事者であっても、まずは自助互助が重要、「はやく、近くの高いところに」逃げる訓練も必要です。そのためには自分たちの住む町の地理や歴史を知ることも重要です。テロであれ自然災害であれ、健康危機管理の新しい時代が来たように思います。

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