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東日本大震災に関する情報

川島 周(川島病院)

 このたびの震災は地震・津波・放射能汚染が重なるという、太平洋戦争終結後に日本が経験する最悪の事態である。この未曾有の大災害に対し徳島県は関西広域連合の協定に基づき、医療救護班を編成し派遣をすることとなったが、私は第5班の一員として参加してきたので報告する。



 徳島県としては3月11日の地震発生直後より行動を開始し、当日夜には早くもDMATを送り出した。徳島県立中央病院(2チーム)・徳島県立三好病院・田岡病院・徳島赤十字病院・健康保険鳴門病院らの6チームが出動した。その後医師・薬剤師・看護師などで構成される医療救護班が編成された。第1班が3月16日から派遣された。18日から救護活動が開始された。派遣される医療職員は徳島大学病院・県内公立病院・徳島県医師会員医療機関での勤務者であり、保健福祉部が編成作業をおこなった。

石巻(川島)1

<第5班の行程>
●3月28日
午前9時
 里見副知事より激励の言葉をいただいた後バスで伊丹空港へ。
 新潟空港よりバスで仙台市へ。
午後10時
 宮城県庁にて第4班より申し送りを受ける。
 仙台市内のホテルで宿泊

●3月29日、30日、31日
 徳島より搬送されている公用車にて、仙台市内のホテルより石巻市万石浦中学校内に設置された救護所に出勤。午前9時すぎより午後7時ころまで、外来診療と周辺地域の避難所へ往診診療等にあたる。

●3月31日
午後10時
 第6班へ申し送り。

●4月1日
午後9時
 同様の経路をたどり午後8時徳島県庁に帰着。小森保健福祉部長ほか大勢の皆様の出迎えを受けて解散。

<人員構成>
 医師4(大学病院1、県立中央病院1、県立三好病院1、民間病院1)薬剤師1(県立三好病院)看護師4(大学病院1、県立三好病院2、民間病院1)事務職員2(大学病院1、県立三好病院1)現地で日本看護協会から派遣された災害支援看護師2名が合流参加。

<石巻市の被災状況>
 石巻市は人口16万人強であるが、このたびの災害により約1万人が死亡したと報じられている。われわれが到着したのは被災後18日目であり、自衛隊の復旧活動により幹線道路は通行可能となっていたが、その道路以外の場所は一面がれきの山であった。徳島市にたとえると、徳島駅から徳島大学病院までの地域一帯ががれき化しているようであった。町中が津波のもたらした泥に覆われており、乾燥後はほこりとなり、飛散していた。ほとんどの電柱は倒壊していたが、一方津波に襲われなかった地域での家屋の倒壊は比較的少数であった。

石巻(川島)2

<当時の石巻市医療救護体制>
 石巻赤十字病院は、平成18年に免震構造建築として改築されたために、建屋としての被害は軽微であり、震災後もこの地域の中核基幹病院として機能していた。一方、石巻市立病院は被害甚大であり、ほぼ廃院状態であった。また徳島県と同様に、兵庫県と島根県、さらに高知大学病院も救護班を派遣していた。面談した伊東・宮城県医師会長の話によると、9人の宮城県医師会員の死亡が確認され、同数程度の行方不明者があるとのことであったが、石巻市内の一般医療機関は全面的に閉院状態であった。

<診療内容>
 受診患者数は1日平均100人強であった。われわれが到着後の受診者の疾患は圧倒的に呼吸器疾患が大多数を占めていた。すでに急性期疾患は姿を消しており、倒壊した家屋や津波のもたらした泥から発する多量のほこりに起因すると思われる疾患が目立った。またインフルエンザも散発的に発生していたが、タミフルとイナビルの早期投与により蔓延化は予防できたと思う。一方避難所での集団雑居生活に起因する「生活不活発病」も次第に増加することは間違いないと思われる。

 一般的薬剤は潤沢に配備されていたが、精神科疾患用の特殊な薬剤や酸素吸入の設備がないという不便もあった。しかし救急搬送体制は機能しており、この救護所は一次医療機関としての役割は果たせていたと思う。

<考察>
 私は阪神大震災後も芦屋市の救護所に出務した経験があるが、被災地の状況は今回の石巻市がはるかに深刻と考えている。町中ががれきとなり、インフラが消滅した地域をどのように復興するのか、私には思いつかない。個人的には重度の医療・介護を要する人たちを他所に移送し、復旧を優先させるのも一法と思っている。

 今回われわれは1日に100人近い、かなり多数のいわゆる「新患」を診療したことになる。不十分な設備の中での診療であったが、実にスムースで穏やかな医療行為であった。事前に先任者からの申し送りもあり、われわれが患者さんの声に耳を傾けることを心掛けたことも一因かもしれないが、それよりも患者さんの気質によるところがはるかに大であったと確信している。受診する患者さんで無傷であった人はいない。精神的にも肉体的にも、また経済的にもかなりの痛手を受けているはずである。事実そのような話をわれわれにする人も何人かいた。しかし長時間歩いて救護所に着き、静かに順番を待ってくれる人が普通なのである。このことは本当に予想外であった。

 私はこの被災地での診療の中で、医療の原点を感じた。

 また、今まで派遣された職員はいわゆる病院からの職員が大多数を占めているが、この救援活動の長期化を考慮すれば、病院からだけでは維持できない。ぜひ今後は診療所側からの支援も必要である。徳島県医師会としてはこのあたりを視野に入れて、今後の対策を立てていかなければと感じたところである。このような意味で医師会員から義援金を募り、いただいた浄財を出務する医師の休業補償としても活用し、長期にわたる支援活動を展開したいと考えている。納付先を下記に示すので、今後ともご協力をいただきたい。

 そしてまた、このような被災地救援体制の構築には、何よりも指揮命令系統の確立が最重要事項であると感じた。インフラが壊滅し、携帯電話も十分に機能しない地域では情報伝達や指揮命令系統が平時にもまして重要となる。今回は自然発生的に出現したリーダーが非常にうまく機能してくれたが、出動以前に各班においてこの体制を決めておくべきと考えている。そしてまたこのような際には、単に医療職員を送り込んだだけでは機能しない。医療職の活動を後方支援する人たちの存在は欠かせない。また被災地の行政機関との連携も必須であり、医療職員・支援部隊・行政機関の三者がタイアップできて始めて有効な支援活動が展開できると実感してきた。

 最後に、私と一緒に業務にあたってくれた県立三好病院の諸兄と宮城県庁内で後方支援部隊として活躍してくれた徳島県庁・徳島大学病院の皆様に感謝を申し上げる。

石巻(川島)3

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